みなさん、こんにちは☆彡
今日は突然目指した、フィットネスビキニモデルについて、なんで目指し始めたのかについてお話します!
私のInstagramやFacebookを拝見されている方は、ご存じかと思いおますが、昨年の3月くらいから真剣に取り組み始め、2022年の9月にベスト・ボディジャパンの札幌大会へ出場しました。
結果は、2部門エントリーしたのですが、残念ながら予選落ちと、ファイナリスト止まりで入賞ならずでした。
が、ハマってしまったんですよね(笑)
大会終わってすぐは、もうやらない・・・って思っていたんですが、
悔しい気持ちの方が強くて、自分に合った筋量が多い大会へと変更することにしました!
なので2023年はサマースタイルアワードという大会のベティ部門へ挑戦します!
今年の目標は、とにかくステージ慣れをして、PRO契約を掴むこと。
そして、12月の決勝大会に出場する事です☆彡
学生でもない32歳が(笑)
そもそもなぜ、また選手の道を進むことになったのか(笑)
ということと、結構質問されることが多い「最終的にはどうなりたいんですか?」について回答居ていきます。
きっと、このフィットネスビキニモデルというものを目指しているということを公表すると、誰もがえっ・・・って一歩引かれて、多趣味だね~と。
どこを目指してるの?
となるわけです。
まぁ、なると思います。
私も最初はそうでした。
筋トレ自体は、ダイエットがてらやっていましたが、でもちゃんとジムに通うようになったのも、出場すると決めてからです。
ダイエットしたかったんです。
それが、きっかけでした。
痩せたかったから、わざと脱ぐ場所を作って、期限を設けよう。それで、トレーナーさんと大会を選び、取り組むことを始めました。
これに取り組みながら、笑育学講座やります!というと、こんなことも言われました。
「千尋さんがどこに向かっているのかついていけなくなる時がある」
((笑)
はい。ついていけないと思います。
極論を言うと、私の人生なので、私以外私がどこに向かっているかなど、分からないと思います。
もちろん主人も分からないと思います。
でも、もちろん、主人にはこうしたい、ああしたいから、協力してほしいということは伝えています。私の一番の協力者です。
本当は2021年12月ころ、もう一度柔道に復帰したいと話していました。
「さすがに、それは現実的に難しい」という主人との話から、じゃぁ・・・ということで今があります。
で、始めたきっかけですが、もちろん目標設定もあったのですが
目標設定する以外にも、いろんな条件が重なって決断するのです。
まず、目標で表向きなところは先ほどお話した「期間を設ける」ということなのですが
それ以外に大きく2つあります。
まず、一つ目は、私には私を応援し続けている人がいます。
その人に誇れる人間で居たいと思ったからです。
そして、二つ目、私が選手と同じ目線で居たかったからです。
まず、一つ目、私だけじゃないと思います。みなさんそれぞれ、常に皆さんを応援し続けてくれている人がいます。無条件にずっといつでも「がんばれ」って応援してくれている人がいます。
私の場合、祖父母であり、両親です。そして、私の主人であり、私を母にしてくれた息子たちです。
もちろん他にも私も千尋さんのこと応援してますよ!という有難い声もあるかと思いますが、私がこの人たちに誇れる人間でありたいと思ったからです。
私自身小学生から柔道をやって、専門学校まで続けました。高校時代は、団体戦日本一というのも公立高校でも達成できるということを身をもって経験させてもらいました。同級生は日の丸を背負い、後輩はRAIZINという別な道でもママさんファイターとして活躍している・・・
そんな姿を見た時に、僻みたくなかったし少なからず心の底から嬉しいというより「もし、私があの時こうしていれば・・・○○の舞台に・・・」とか、たらればを考えてしまうんですよね((笑))
やってもいないのに。
確実に、やってないから結果が出ないという言葉がありますが、私の中では、それおあるけど、それはあなたの道じゃないから結果がでないとも思っています。
やらされているうち、誰かの期待に応えたい内は結果はでないよ。だって、あなたがなりたいと思っている訳じゃないんだから。ということも実感しました。
柔道が嫌いだったわけではありません。
無茶苦茶好きでした。好きだったからこそ、争ったり順位を着けるということに途中から違和感を感じ、高校時代選手として不完全燃焼で終わってしましました。
でも、その気持ちがあったから「私が100の力を出しても、勝つことはできないけど、私が少しでもチームに貢献できるためには?この選手(後輩)が強くなるためには?私には何ができるだろう?」ということは常に考えていました。他人の喜ぶ顔を引き出すために私には何ができるだろう・・と。
試合で活躍する選手を見る一方、早々と試合に負けると手が余るんです。
元々、両親も共働きだったので周りの保護者に比べたら応援に来ることも少なかったのですが・・・
小学生の時、柔道が楽しいと思えたのも、祖父や両親熱心な応援があったからもあります。
今、祖父母や両親の応援がない中、ではなんで今?
となるかと思います。
期待もないです。だから、やるんです。
フィットネスビキニモデルは、自分でやりたいと思った。
そして、もう一度両親や祖父母にもう一度選手として戦っている姿を見せたいなと思ったからです。
いや、両親は嫌がっています((笑)
何目指してるんだかってなっています((笑))それでもいいんです。これが、私ができる選手としての道だからです。
5年ぶりに帰省した2022年4月、小さくなった父の背中を見て、久しぶりの再会で神をも拝むような祖父との再会の中で、言葉にできない熱いものがこみ上げてきました。
仕事の変わりはいくらでもいる。
私が居なくても、整骨院業界は回っています。
だけど、この人たちの娘・孫である私は1人しかいません。だから、私にしかできないことをやろうとおもったんです。
これが恩返しになるとかそういうことでは、ありませんが、へなちょこな自分を見ても、学べることが息子たちにきっと訪れるだろうなとも思っています。
失敗することを恐れない。とかって口ではいうけど、それを、母は完璧じゃないよ。って見せたかった。というのが、息子たちに見せたかった姿です。
いずれのせよ、誰かなりたいとか、こうなりたいとか地に足を付けないで、たらればを嘆くより
やっていないことを知っているのは自分自身なので
やってないなら、どんな結果になろうともやってみなきゃわからないよなと思ってからなんですよね!
例えまたこれを挑戦することで、あの人はいいな。この人はいいなと嘆く自分も出てくるかもしれません。だけど、誰か比較しても結局は変わらないよということだったり、自分自身が自分にしか分からないような学びを得ることは確かだと思うので、とりあえず、やってみようと挑戦しています。
私はかなりの祖父母大好き人間です。
2年前祖父が脳梗塞で倒れ、左半身麻痺になりました。
5年ぶりに帰省した2022年4月コロナ真っ只中。
祖父に会いに行くと、天井を見てただ仰向けで寝ていました。
私が部屋に入ると私が、来ているとは分からず、隣近所の娘が帰省して帰ってきていると思っていたようで、「千尋だよ」というと、涙を流し、ベッドから上がり、私の手を両手で掴んで、拝むようにひざまずき
「千尋や~、おら、びっくりした~・・・もう二度と会えないかと思った~~~」と何度も何度も
鼻水と涙でぐしゃぐしゃにしながら、話してくれました。
私ももう、言葉にならないくらい、胸が痛かったです。
祖父は今、88歳。
左半身麻痺になり、不自由を知り、変わることの無い天井を見上げ、余生をどう考えていたんだろう・・・そう思うと
「もう会えないかと思った」
と、飛行機で帰れば会えるのです。
だけど、コロナの前から忙しさを理由に帰って無かったんです。母だから、整骨院を営んでいるから・・・嫁だから・・・こうしたら・・・こうしよう・・・
そう考えていたらあっという間に月日は過ぎていました。
ひとしきり泣きあった祖父は、ハッとしたかのように
「お前がここにいるということは、患者さん悲しむぞ」
と言ってきたんです。
その時、私の人のためにという精神はこの人から受け継いだのか。と思いました。
「帰るよ」と声を掛け合ったとき、寂しい顔ではなく、祖父は前向きで、笑顔満載でした。
その笑顔を見て、またも、私の笑顔はこの人譲りなのだと、また誇らしく思えました。
いろんなビリーフ(信念)をそれぞれみんな親から受け継いでいると思います。
私の場合、祖父母といる時間が長かったから、祖父母から受け継いだ信念が多いと思います。
この信念も、振りかざしてしまえば、刃物になってしまい、誰かを評価したり、ジャッジする対象になってしまうかもしれません。
だけど、私が帰省して感じた祖父母から受け継いだ信念は、
そこに居るだけでいい。という存在承認をしてっくれる暖かいものでした。
私の実家は本当に山の中にあります。
今でも、電波がほぼ無いような山の中です。
だから、何も物ないから、沢山の愛があります。
すごく豊かなところです。話がそれましたが、私が今、この目標に向かう時、いつでも「うん」と頷いて背中を押してくれて、いつでも見方で居えくれる祖父母が居る。
どんな結果であろうと、応援してくれる人が居る、安心感で何才だろうと挑戦しようと思うことできました。
今年の冬は実家に帰ったのですが、なんと、半身不随だった祖父が、歩けるまでに回復していました。
何を約束するわけでもないけど、一緒にまた・・・をする。それが祖父の原動力のようです。
そして、もう一つの理由だった「選手と同じ目線で居たかったから」
これは、そのまんまです。
私はラグビー部の選手のサポートを行っているのですが、
私自身、どんな大人の声に耳を傾けたいと思うかな?
と思ったときに、一緒に挑戦してくれる、口だけじゃない人。だったんです。
そして、主人の存在。私が信頼できる人ってどんな人?
と思ったときに、並走してくれる人だったんです。
だけどそれは、時として道を正す意見をくれる、ほしい時に的確な意見をくれる存在。
私の中でトレーナーは、コーチや指導者ではないと思っています。
フィールド上では、輝くのは選手。
あくまでも私たちは裏方であり、チームの垣根を越えて偏りのない目で安全を確保し応急手当をする。
もちろんトレーニングの時は、選手や監督と相談をし、希望に沿いトレーニングやフォーム指導を組みますが、価値観やこうなってほしいという理想を押し付けるのとは違うと思っています。
だから、選手と同じ目線でいたくて、常に対等な目を大切にしたくて
競技は違えど、挑戦するという道を選びました。
長くなってしまいましたので、この選手と対等でいたいからということについては、また明日
「仕事をするということ」
についてお伝えしていきます(^^♪
私が私らしく生きる選択をした訳
それは、他の誰でもない、私にしか伝えられない事
私しかできない事、それを経験していきたいと思ったからであり
私の人生、自由であり、辞める理由、やらない理由より
やってみることを選択することで、自分の声を一番大切にしていけると思ったからです。
皆さんも、是非自分の声を大切にして、その輪が広がっていければなと思います。
広がることで、皆さんの周りの方々、関わる方々にもまたその輪が広がっていけたらなと願っています。
私が、自分の声を大切にしようと思ったきっかけについてもまたお話していきます。
そんなこと興味が無いと言われても、こうして発信していくことで、
自分自身が俯瞰的に自分と対話をしていくことができます。
今日もお付き合いいただきありがとうございました。
また、皆様にとって笑顔溢れる一日となりますように☆彡
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